見る時
誰かと誰かとの仲を
不倫と呼ぶ
なのに
自分とお相手の仲は
ツインレイと呼ぶ
何故だろう
自分に起きた事ならば
他の誰かに
起こり得る事
同じに見るって
表面にとらわれないで
本質を見ること
ジャッジは
何処から起きるのか
何をもって
判断するのか
これは
その後の歩みに
大きく関わってきます
後を大きく
変えていってしまいます
自分には在って
他には無い事
他の方を感じる時に
必要なことは
神聖さは
全ての方に平等の元
起こされるものだということです
見方の偏りは
最終的に
手元に戻ってきてしまう
平等性のもと
ものを見るって
そういうことなのです
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